【エルメス】ヘラクレス

【エルメス】ヘラクレス

廃盤が作った需給の非対称——マルジェラ期シルバーを観察する

大城崇聡(Collection Bank代表取締役)ノスタルジーコレクションクラブ|火曜日時計・ジュエリー分析

1. 今日の対象

先週はシェーヌダンクルを扱いました。1938年生まれ、88年間現役のエルメスを代表するジュエリー。需給の非対称が今も続く、継続して観察すべきアイテムです。

今週はその続きとして、同じエルメスのシルバーラインから「ヘラクレス(Heraclès)」を取り上げます。

ヘラクレスとシェーヌダンクルは、同じエルメスのシルバーでも、構造がまったく異なります。シェーヌダンクルは今も正規店にラインナップされています。ヘラクレスは廃盤です。正規店では手に入らない。この違いが、コレクターとしての観察のポイントです。

ギリシア神話に登場する英雄ヘラクレス(Hercules)と、エルメス(Hermès)の頭文字「H」を重ねたモチーフ。シンプルでありながら、知っている人間には一目でわかる。そういうジュエリーです。

2. なぜ今これを見るのか

廃盤になったものの価値は、廃盤になった瞬間には上がりません。

時間が必要です。保有者が使い続け、傷んだものは市場から消え、大切にしまっていた個体だけが少しずつ出てくる。その過程で需給の非対称が生まれ、価格が動き始めます。ヘラクレスは今まさにその段階に入っています。

もうひとつ、背景があります。マルタン・マルジェラがエルメスのプレタポルテを担当していた1997年から2003年——いわゆる「マルジェラ期」——に生まれたアイテムであること。この文脈が、ファッション好きの間で改めて掘り起こされています。

マルジェラ期のエルメスは、ウェアだけが注目されてきました。ヴァルーズのVネック、ドゥブル トゥールの二重巻きベルト。しかしジュエリーも同じ時代の空気を持っています。ヘラクレスはその代表格です。今、そこに気がついたコレクターたちがP2P市場を掘り始めています。

3. 何が価値を作っているのか

名前の由来——二つの「H」

ヘラクレスという名は、ギリシア神話の英雄の名そのままです。そしてエルメス(Hermès)の頭文字もHです。このふたつのHを意匠として重ねた、エルメスらしい遊びがこのジュエリーの出発点にあります。

留め具のデザインに職人技が集約されています。十字に重ねるように引っ掛ける独特の構造は、外れにくく、使い続けるうちに「これはよく考えられている」と気づく類のものです。派手さはない。でも構造に誠実さがある。それがエルメスらしさであり、ヘラクレスの美学でもあります。

マルジェラ期という文脈

マルタン・マルジェラは、当時ファッションジャーナリストさえ困惑させるほどアヴァンギャルドなデザイナーでした。そのマルジェラがエルメスのクリエイティブディレクターに就任するという事実は、1997年当時かなりの話題になりました。

「無駄を削ぎ落としながら、存在感を持たせる」——マルジェラの哲学は、ウェアだけでなくアクセサリーにも一貫しています。ヘラクレスはそのミニマルな美学が静かに宿ったジュエリーです。過剰な装飾がない。でも着けると、手元や首元に確かな重さと存在感が生まれる。その矛盾のなさが、コレクターを惹きつけます。

廃盤という構造的希少性

シェーヌダンクルは今も作られています。毎年2月に定価改定があり、正規店では予約待ちが続く。供給の天井はありますが、供給そのものはゼロではありません。

ヘラクレスは違います。廃盤です。今後一切、新品は生産されません。市場に存在する個体の総数は、今この瞬間も減り続けています。使われて傷む、紛失する、相続で行方がわからなくなる——保有者の手元から離れて消えていく個体は戻ってきません。

需要が生まれたとき、供給は増えない。これは構造的な希少性です。シェーヌダンクルの需給の非対称が「職人の手の数」という天井によるものだとすれば、ヘラクレスの希少性は「廃盤」という絶対的な上限による。性質が違います。

生産数と現存数の推移

マルジェラ期(1997〜2003年)の6年間に生産されたヘラクレスの総数は、公式には公表されていません。しかしこの時期のエルメスのジュエリーラインは、あくまでプレタポルテのコレクションの文脈で作られたものであり、大量生産とは無縁の製造体制だったことは確かです。

廃盤から20年以上が経過し、P2P市場に出てくる個体は状態の良いものと、使い込まれたものとで二極化しています。特に50cmサイズのネックレスや、TGMサイズのブレスレットは流通量が極端に少なく、見かけたとき即断できる準備が必要なほどです。

4. 今の相場感

ヘラクレスは廃盤のため正規店定価は存在しません。観察すべきはP2P市場での個人間売買の実勢価格です。

まず、価格の文脈として押さえておきたい事実があります。2015〜2019年頃、ヘラクレスのネックレスはP2P市場で10,000〜15,000円ほどで動いていました。今と比べれば、誰も見ていなかった時代です。

シルバー(SV925)ブレスレット(18〜19cm) P2P市場での現在の出品価格は440,000〜900,000円の水準で並んでいます。一方、ヤフオクでの過去120日の成立価格は平均249,800円、最高443,000円。出品価格と成立価格の間にギャップがある状態で、売り手が強気に値をつけ始めていることを示しています。状態と付属品の有無によって幅が出ますが、価格水準は数年前と比較して大幅に切り上がっています。

シルバー(SV925)ネックレス 42cm ショートサイズは状態の良い美品で400,000〜600,000円以上での成立が見られます。付属品が揃っている個体は「出た瞬間に売れる」という表現が専門店から出るほど、流通は細っています。

シルバー(SV925)ネックレス 50cm 男性でも着用できるロングサイズは、このラインの中で最も希少性が高く、フリマサイトやヤフオクで1,500,000〜1,900,000円での成立事例が確認されています。42cmとの価格差は倍以上。サイズと希少性が価格に直結しています。

ゴールドモデル(K18) シルバーとは次元が違います。特にイエローゴールド(YG)は「幻」と呼ばれるほど流通量が極端に少なく、モデルによっては数百万円から数千万円での取引事例が確認されています。金地金価格の高騰がジュエリーとしての価値に上乗せされており、この構造は今後も続くとみています。

2015〜2019年比で、ネックレスは25〜30倍以上の価格高騰が起きています。ただし、これを「上がったから今すぐ動く」という文脈で読むのはこのクラブのスタンスとは違います。廃盤品の価格は、長い時間をかけて需給の非対称が積み重なった結果として上がる。そのプロセスを理解した上で観察することが重要です。

5. 何を観察するべきか

流通量の絶対数を見る P2P市場でヘラクレスを検索したとき、出てきている個体の数を定期的に確認してください。出品数が減っているか、増えているか。それだけで需給の空気感がわかります。

サイズと素材の組み合わせを覚える ブレスレット18cm(女性サイズ)とネックレス50cm(男性サイズ)では、流通量と価格水準が大きく異なります。自分が観察すべき「層」を決めることで、見るべきものが絞れます。

付属品と刻印の状態を確認する マルジェラ期のエルメスには刻印のディテールがあります。付属品(オレンジボックス、リボン、布袋)の有無は価格に影響します。良い個体が何を持っているかを知っておくことが、出てきたときの即断につながります。

シェーヌダンクルとの価格差を観察する 先週のシェーヌダンクルGMシルバーのP2P実勢価格は280,000〜320,000円前後。ヘラクレスのシルバーネックレス50cmも同水準かそれ以上で動いています。現行品と廃盤品が同じ価格帯で並んでいるという事実は、何かを示唆しています。

6. コレクションとして持つ意味

高校生のとき、祖父からロレックスのオイスターパーペチュアルデイトをもらった。特別高価なものではなかったけれど、ずっと手放さなかった。売ろうと思ったことも、正直ある。でも手放せなかった。好きだったから。

僕はヘラクレスを持っています。着けていると、何かを説明しなくていい感じがある。知っている人には伝わる。知らない人には、ただのシルバーのチェーンに見える。それでいいと思っています。

ヘラクレスはもう作られない。今世界に存在している個体が、この先も存在し続けるかどうかは、誰かが大切に持ち続けるかどうかにかかっています。「廃盤品を保有する」とはそういうことで、時間を味方につけるコレクションの本質がここにあります。

マルジェラ期のエルメスという文脈が再評価されているのは、あの6年間が「普通ではなかった時代」だったからです。アヴァンギャルドなデザイナーが、世界最高峰のラグジュアリーメゾンで仕事をした。その痕跡が物質として残っている。ヘラクレスはその痕跡のひとつです。

記憶が宿ったジュエリーは手放しにくい。手放しにくいものは市場に出てこない。出てこなければ希少性が増す。先週のシェーヌダンクルで書いたこの構造が、ヘラクレスではさらに純粋な形で働いています。廃盤ゆえに、補充がきかない。

7. まとめ

「何を買うか」の前に、まず観察することを始めてください。

ヘラクレスのP2P市場での流通量は少ない。出てくるタイミングは読めない。だからこそ、定期的に市場を見て、良い個体の条件を頭に入れておくことが先です。

観察のポイントは三つです。サイズ(特に50cmネックレスと19cmブレスレット)、素材(シルバーかゴールドか)、状態と付属品の有無。これだけ決めておけば、市場に出てきたときに動けます。

シェーヌダンクルが「現行品の需給構造を観察するジュエリー」だとすれば、ヘラクレスは「廃盤品の時間と希少性を観察するジュエリー」です。両方を知っておくことで、エルメスのシルバーという領域の全体像が見えてきます。

何を買うかより、何を見続けるか。それがコレクターとしての出発点です。